龍善寺が考える葬儀とは
「葬儀は誰のための行うものですか?それは、残った方々のためなのです。」
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仏教では「生死一如(しょうじいちにょ)」といって、生と死は表裏一体で切り離せないものだと教えます。
人はなぜ死ぬのか・・・それはこの世に生まれてきたから。
そして、いつどのようにして死ぬかはすべて人智を超えた「縁(えん)」によります。だとすれば、その時がいつ来てもいいように生きたらいい。それがまさしく仏教の教えです。
しかしそのためにはやはり、「いのち」が尽きた後、私はいったいどうなるのかを確かなことにしておかないといけない。
それを教わる最大のチャンスが葬儀なのではないかと思います。亡くなった日のことを「命日」ともいいますが、それは“私が「いのち」の意味を教わった日”という意味でもあります。
ですから葬儀にかけるお金が「多いから良い」「少ないから悪い」ということではなく、葬儀の場で亡き人の声なき声に耳をすませ、「いのち」についてのメッセージを受け取ることができるかどうかが、より大切なことだといえます。
実は、亡くなった方は「安らかに眠っていない」と浄土真宗では考えています。では眠らずに何をしているのかというと、残った私たちのために絶えずメッセージを発信してくれているのです。
それも含めて考えると、葬儀は亡くなった方のためという以上に、残った私たちのため、今を生きる私たちが「いのち」についての学びを得るために、行なうべき大切なことなのです。
葬儀費用(お布施)について
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多くの方から、葬儀のお布施はいくらですかとか、ご法事のお布施はいくら払えばよいのですかといったご質問を頂きます。
お布施の額は、私が決めるのではなく、皆様が、ご本尊なり、仏様とよくよくご相談して、皆様が決めてください。
「お布施」は、「喜捨」(喜んで捨てる)とも言います。その方にとって本当に「喜捨」となっているか(少なくとも後でそう思えるか)が大事なことだと思います。
実は、布施の額をいくらにするのか。そこに少なくとも浄土真宗の教えがあるのだと思います。
よくお話しているのは、「布施」の意味です。
私が聞いた話では、「布施」とは、全財産です。
お釈迦様は、そもそも我々が持っている財産などは余計なものとして、そのようなものがあるから、迷い、欲に目がくらむのだとして、自らも財産を捨て、地位も捨て、家族も置いて出家されました。我々、仏弟子であるならば、同じように、すべて余計なものとして、言ってみれば、全財産を寺に持って行き、その上、その時着てきた服まで置いて行きなさい。裸で帰りなさいということだと聞いております。
「布施」の「布」とは、最後に来ていた服の「布」の意味なのです。
ところが、到底、私は出来ません。あれを買いたいから、これだけは残しておこう。将来のためにこれだけは取っておこうと全財産であるはずのお布施をどんどん減らしていきます。
このような私がどうしたらお釈迦さまと同じく極楽浄土に生まれかわることができるのかそこにこの我が身を気付かせて頂くという教えがあるのだと思っております。こんな私だからこそ、全ての人を極楽浄土に導くという阿弥陀仏の救いが大事になってくるのだと思っています。
ぜひ、お布施の額を悩んでください。そこに我が身に気付くという教えがあるのだと思っています。
その上で、本当に困った時は、ご相談ください。お伝えできる範囲でお話しさせて頂きます。